2012年3月14日水曜日

被災地に学ぶ旅・津波映像をみせてもらう(3/13)

3月13日(火)松本勇毅さん(たろう観光ホテル社長)に話を伺いました.

・松本勇毅さんに,たろう観光ホテル6Fより,自身がその場で撮影された津波襲来の瞬間の映像を見せていただきました.6Fのその部屋で映像を見るといった.臨場感溢れる感覚を経験させていただきました.大画面のTVを用意されており,自身が被災したかのように感じます.

・松本さんは,お爺さんなどから,田老の津波のことを伝え聞いていて,その津波と言うものを記録しておこうと地震がある度に,ホテルから海の様子を撮影されていました.今回も地震があった後,従業員等を避難させた,一人ホテルに残り,撮影されたのです.当初は,ここまでの大きな津波というのを想像だにしなかったようですが,実際は6F部屋のまさに足もとまで津波が来たということでした.

・実は,この映像,民放3社より,貸与の依頼があったらしいのですが,「この部屋で映像をみないとこの映像の意味はない」ということで断ったそうです.16mの津波が襲ってくる瞬間を真正面から撮影した映像は他に無い貴重なものです.今回,それを撮影者の解説のものとで見せて頂いたというのは大変ありがたかったです.

・私たちは,9:30から1時間ほど映像と話を伺うことができましたが,10:30からはJICA,昼からは大阪府と来訪者が絶え間ない様子でした.被災したホテルもこのまま残したいという考えをお持ちでした.被災地では,南三陸町の合同庁舎や被災した建築物の多くは,取り壊す予定にあるようで,今回の災害を後世に伝える『もの』として遺されるものは意外と少ないようです.その中にあって,当ホテルは貴重な災害文化の資源になるに違いないと思いました.恐らく,広島の原爆ドームに匹敵する建造物になるでしょう.

・この建造物と映像は,さらに語りは,災害文化の遺産です.松本さんは,「この場所で映像をみなさんに見て,学習していただきたい」,そして「その仕組みをこれから考えていきたい」と言われていました.私も,是非たくさんの方々にここで見てもらいたい,同時に自身のホテルが被災して再建不可能となった中にあっても,被災経験を伝え残そうと言うお考えに感服いたしました.松本さん,お忙しいところ,ご対応いただき,ありがとうございました.

・なお,田老地区を1時間ほど歩きましたが,以前より,風景は何も変わっていません.変わったのはローソンができたこと,物産品の販売所ができたことぐらいでした.田老駅前というバス停があるのですが,もちろん駅に汽車がくることはありません.これからも田老地区を見続け,その取り組みに,学びたいと思いました.

・写真は,観光ホテルです.4階まで津波が来て,最上階の6階で撮影されました.もう一枚はその部屋から見える海です.

被災地に学ぶ旅・復興計画をつくる(3/12)

3月12日(月)NPO田老(理事) 吉水誠さんに話を伺いました.

・田老地区は,約115年間の内に,3回津波を経験し,明治,昭和の津波では壊滅的な被害を受けています.今回も226名が亡くなりました.中には世界一の防波堤を過信,安心,油断をして逃げるのが遅れた方もいるようです.

・県,国によって,まず原形復旧としてX型の防波堤を再建,高さは海側のものを最大14.7m,陸側のものを現在と同じ10mとする案が決定.そのハード案を基本に,復興まちづくり計画案が県から提案され,住民の話し合いが始まったのは10月.それから住民代表25名が議論を重ね,5ヶ月後の2月18日に最終取りまとめが行われました.

・当初案は,山側の浸水地域の地盤を盛り土,かさ上げし,そこを住居地区にするという案が中止であったが,当初多くの住民の意見は「もうここには住みたくない」,「高台移転を」というもので県の考えとは随分と乖離があったようである.最終案では,高齢者などの「ここに住みたい」という方にも配慮し,4mかさ上げ,そこに自己責任で家屋を建てること,高台移転を併記する案となりました.県の案と住民意見とをまとめるための会議は,予定していた4回を大幅に超えて,7回開催したようです.

・吉水さんの意見は,「将来に禍根を残すような計画ではダメだ,全員高台移転を」というものでした.「長期間かかろうとも,被災者だけの高台移転ではなく,今回被災,浸水しなかった方も含めて,地区全体で高台に移転する」という意見は他に聞いたことのないものです.「現状の制度で,非被災者も高台移転と言うのは難しいのですが,そのような案を市町の長が提案し,国の制度をも動かしていくことが,重要なことではなかったか」と言われてました.確かに,一部の住民が抜けてしまうと街の機能も断片化し,街のにぎわい,活力,コミュニティが失われるに違いなく,街の将来を見据えた適切な案であると思います.ただし,そのために要する時間,そのプロセスなどは明確に示すことができず,「短期間では,他の方の同意を得るのが難しかった」,「住民主体と言うが,そのやり方にも限界がある」と無念な表情を滲ませていました.確かに,まちづくり協議会も被災前にあったようですが,それが計画案検討の時に十分に機能しなかったようでした.

・話をお聞きし,数カ月時間の内に,『100年,1000年の計』となる,ゼロからの街づくり計画を立案するのは,田老地区だけによらず,現実的には難しいと感じました.それは,�生活復興もままならず,心の傷が癒える間もなく,全てに余裕のない被災者自らが立案するということの限界,�行政の提案がハード案をベースにし,多機関調整の下に作られた案なので,それを変更することが難しいこと,�住民と言っても被災のレベル,生活復興のレベル,家庭の事情等様々で,住民内の合意形成は容易ではないことなどがあるようです.

・私はその対策として,�権限を持った行政の窓口を一つにする(これが復興庁だが立ち上げが遅かった),�議論にあたっては被災者側にたつ,「まちづくりの専門家」を雇用する,�計画されたものが理念を失わず実施されるかをモニタリングするまちづくり委員会を設置することなどが最低限必要と感じました.�は,国が決めたことだから,担当が違うからという話を回避するため,�は被災者の負担を軽減するため不可欠.吉水さんも田老で家屋流出,4人の兄弟全員が被災,家屋流出に遭ったとのことでした.�,�は残念ながら,既に終わったことですが,�はこれからのことです.吉水さんも「これからが大切」と言っていました.

・また「被災前に考えてなかったことを,被災後にあわてて考えても,満足のいく解答は難しい」と痛感しました.やはり『被災することを考慮した事前復興まちづくり計画』は町の持続的な維持発展のためには,不可欠です.この考えには吉水さんも賛同していただき,4月には徳島に来て頂き,講演,防災計画について相談に乗っていただけることになりました.徳島での再会を約束してお別れしました.吉水さん,お忙しいところ,お話をしていただき,ありがとうございました.

写真,市内のファミリーレストランで話をうかがっている様子です.

被災地に学ぶ旅を書きます

みなさんこんにちは.

この記事は上月による,平成24年3月12日~15日までの間,宮古市田老地区から仙台市までの視察報告です.
今回で,3回目の同地域の視察となりますが,今回は学生2名のみの同行となっています.
しかし,これまで同行いただいた方々にも是非,情報を共有したいと思い,記事を書きました.
感想程度で恐縮ですが,読んで下さい.
gata girlほどうまく書けませんが,頑張って書きました.
よろしく.

写真は,宮古駅前です.
御覧の通り,大雪となりました.

上月康則