2012年3月14日水曜日

被災地に学ぶ旅・復興計画をつくる(3/12)

3月12日(月)NPO田老(理事) 吉水誠さんに話を伺いました.

・田老地区は,約115年間の内に,3回津波を経験し,明治,昭和の津波では壊滅的な被害を受けています.今回も226名が亡くなりました.中には世界一の防波堤を過信,安心,油断をして逃げるのが遅れた方もいるようです.

・県,国によって,まず原形復旧としてX型の防波堤を再建,高さは海側のものを最大14.7m,陸側のものを現在と同じ10mとする案が決定.そのハード案を基本に,復興まちづくり計画案が県から提案され,住民の話し合いが始まったのは10月.それから住民代表25名が議論を重ね,5ヶ月後の2月18日に最終取りまとめが行われました.

・当初案は,山側の浸水地域の地盤を盛り土,かさ上げし,そこを住居地区にするという案が中止であったが,当初多くの住民の意見は「もうここには住みたくない」,「高台移転を」というもので県の考えとは随分と乖離があったようである.最終案では,高齢者などの「ここに住みたい」という方にも配慮し,4mかさ上げ,そこに自己責任で家屋を建てること,高台移転を併記する案となりました.県の案と住民意見とをまとめるための会議は,予定していた4回を大幅に超えて,7回開催したようです.

・吉水さんの意見は,「将来に禍根を残すような計画ではダメだ,全員高台移転を」というものでした.「長期間かかろうとも,被災者だけの高台移転ではなく,今回被災,浸水しなかった方も含めて,地区全体で高台に移転する」という意見は他に聞いたことのないものです.「現状の制度で,非被災者も高台移転と言うのは難しいのですが,そのような案を市町の長が提案し,国の制度をも動かしていくことが,重要なことではなかったか」と言われてました.確かに,一部の住民が抜けてしまうと街の機能も断片化し,街のにぎわい,活力,コミュニティが失われるに違いなく,街の将来を見据えた適切な案であると思います.ただし,そのために要する時間,そのプロセスなどは明確に示すことができず,「短期間では,他の方の同意を得るのが難しかった」,「住民主体と言うが,そのやり方にも限界がある」と無念な表情を滲ませていました.確かに,まちづくり協議会も被災前にあったようですが,それが計画案検討の時に十分に機能しなかったようでした.

・話をお聞きし,数カ月時間の内に,『100年,1000年の計』となる,ゼロからの街づくり計画を立案するのは,田老地区だけによらず,現実的には難しいと感じました.それは,�生活復興もままならず,心の傷が癒える間もなく,全てに余裕のない被災者自らが立案するということの限界,�行政の提案がハード案をベースにし,多機関調整の下に作られた案なので,それを変更することが難しいこと,�住民と言っても被災のレベル,生活復興のレベル,家庭の事情等様々で,住民内の合意形成は容易ではないことなどがあるようです.

・私はその対策として,�権限を持った行政の窓口を一つにする(これが復興庁だが立ち上げが遅かった),�議論にあたっては被災者側にたつ,「まちづくりの専門家」を雇用する,�計画されたものが理念を失わず実施されるかをモニタリングするまちづくり委員会を設置することなどが最低限必要と感じました.�は,国が決めたことだから,担当が違うからという話を回避するため,�は被災者の負担を軽減するため不可欠.吉水さんも田老で家屋流出,4人の兄弟全員が被災,家屋流出に遭ったとのことでした.�,�は残念ながら,既に終わったことですが,�はこれからのことです.吉水さんも「これからが大切」と言っていました.

・また「被災前に考えてなかったことを,被災後にあわてて考えても,満足のいく解答は難しい」と痛感しました.やはり『被災することを考慮した事前復興まちづくり計画』は町の持続的な維持発展のためには,不可欠です.この考えには吉水さんも賛同していただき,4月には徳島に来て頂き,講演,防災計画について相談に乗っていただけることになりました.徳島での再会を約束してお別れしました.吉水さん,お忙しいところ,お話をしていただき,ありがとうございました.

写真,市内のファミリーレストランで話をうかがっている様子です.

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